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2014.6.8 「おけけが語る」
おけけ

梅雨になると俺の古疵が思い出す事。


熊
6月。暑くなり夏の到来を感じさせる陽気が続いたが、長くは続かない。
長い雨の日々は太陽の煌めきを忘れさせようとしていた。
 
森はこの時期、最もダイナミックな変化を迎える。
長雨を存分に浴びた植物達は、その成長が目に見える程に生き生きとざわめき、その過程で発せられるムッとした匂いが辺りに立ちこめている。
十分に湿った土からは水蒸気が立ち上り、その匂いを増長させ、動物達はいても立ってもいられないという風情で駆け回る。
 
山のあちこちで起こる土砂崩れは狩り場を変化させ、増水した川の流れは、魚の居場所をとたんに押し流しその形を変える。
あらゆる者達が、この先に起こる事に聞き耳を立て、その変化を見守っている。
 
俺はこの梅雨の長雨の時期には、必ず友の事を思い出す。
正確には、俺の古疵がその友の想い出を連れてやってくるのだ。そして俺は応える。「忘れてないさ」と。
 
その日も6月の長雨が降っていた。
俺は変わり果てた川の流れを眺めていた。
 
「なんて事だ。こんなに渓相が変わってやがる。これじゃあ魚の居場所がわからないぜ」
 
俺は普段。川の魚を捕って食す。大抵はヤマメだ。そのまま火で炙って食べる。
だが、この時期は川の増水によって、魚のいたポイントが全く変わってしまう。おまけに川は濁り、まともに狩りが出来ない。
 
「やれやれ。お手上げだな」
俺が言ったのではない。その声は後ろから聞こえて来た。
 
振り向くと、大きな雄の熊がいた。
俺は森のざわめきに気を取られ、熊の気配を見逃していたようだ。
 
「ところでお前は、おけけだったな」
「あぁ。お前は熊だったっけな」
「・・・俺を挑発しているのか?」

 
熊は気が立っていた。きっと俺と同じく川の魚を捕りに来ていたのだろう。
戦うには少々厄介な相手だ。あまり刺激したくはなかった。
 
「いや。気に障ったなら悪かった。それにしてもこの長雨にも困ったもんだな」
熊はそれには答えなかった。ただただ俺をじっと見つめている。少々厄介な事になりそうだった。
 
その時、頭上で鳥が羽ばたく音が聞こえた。それに気を取られ、一瞬、熊が目を上に上げた。
俺はその隙をついて姿を消すつもりだった。これ以上対峙しているのは気が進まなかったからだ。
左に跳躍した瞬間、熊の手が伸びて来た。目の前が暗くなり、その次の瞬間には俺は地面を這っていた。何が起こったのかわからなかった。
 
視界に熊が見えた。手に血が付いている。あれは俺の血かもしれない。
熊は悠々とした歩幅で、少しずつ俺に近づいて来ている。ヤツに取っては半分暇つぶしのつもりなんだろう。そこには、明らかに油断が見えた。俺がヤツに勝てるとしたら、そこをつくしかない。ぼんやりとした思考の中で考えた。
一歩ずつ熊は近づいて来る。俺の感覚は鈍く、遠くの方で痛みを感じていた。あと数分のうちに激痛に変わりそうだった。
「もう最期かもしれない」
俺は呟いた。
 
熊が一瞬にやりと笑った。俺は渾身の力を振り絞り、毛を飛ばした。狙いは目だった。
「グォォォォォ!」
当たった。熊が叫んでいた。
俺は背後に回り込もうとしたが、足が思ったように動かず、バランスを崩した。
ヤツの足が飛んで来たのをマトモに食らった。万事休すだ。地面に倒れ込み、俺は動く事さえ出来なかった。痛みは相変わらず遠くにいたが、確実に俺の意識を捕らえて離さなくなっていた。もう動けそうにない。第一、熊に勝てる訳がないのだ。俺は少しでも戦おうと思った自分の甘さがおかしかった。
 
「悪くない最期だぜ」
目を開けると、熊はすぐそばに近づいていた。目を貫いた俺の毛は、ヤツの視界を奪う事には成功していた。だがそれまでだ。熊は鼻が効く。俺の血の匂いを頼りに真っすぐに近づいて来ていた。
 
「なぁ。おけけよ。俺の目はもう見えない」
「悪かったな。俺の最期のあがきだ。取っといてくれよ」
「なぁ。おけけよ。俺はお前をバカにしていた。俺はその罰を受けたんだと思う」
「・・・・・・・・」
「俺はお前を殺すつもりだった。だがやめた。そんな小さな体で立派に戦おうとしたヤツを殺そうだなんて、もう思わなくなった。俺はその罰を受けて、もう死ぬだろう。もうこの目じゃ魚も捕れない」

 
熊はその場にしゃがみ込み、動かなくなった。そこでやがて死が訪れるのを、待つつもりらしい。
岩のように大きな体が、静かに横たわっていた。呼吸は静かで、例えようの無い悲しみを感じさせた。
 
 
一週間後、その熊に魚を捕って来た。
「喰えよ」
「・・・・・・・お前は、こんな俺を許そうと言うのか」
「いいから喰えよ」

熊は黙って魚を食べ始めた。目から涙がボロボロと流れていた。
 
俺は、それから毎日熊に魚を採って来て食べさせた。熊が死ぬまで毎日届けるつもりだった。
俺たちは、少しずつ話すようになり、やがては友と呼び合うようになっていった。
鳥の話、森の話、土の匂いの話、女の話、生きる事についての話、俺たちはありとあらゆる事を話した。
 
そして冬が来ると熊は冬眠に入る。と言った。暫くの別れだ。
「友よ。春にまた会おう」
それが最期の言葉となった。
 
春になってもその熊は冬眠から覚めなかった。俺はどこに潜んでいるのかは知っていたが、そこを訪ねる気にはならなかった。喪失感が俺を襲った。友よ。そう呼べる存在に会った。それが幸せだと感じた。しかし、友を失う事は遥かに堪える事だった。
 
俺はそれから、梅雨が来ると友の為に魚を捕り、友の分まで魚を食べた。
なぁ友よ、結局は俺たちはいつか別れる事になったのだ。
熊と妖怪。おかしな組み合わせだ。だが、最高にぴったり来ていたのだ。
 
俺はもう泣く事はないだろう。そして、俺が生きている限り、お前の事を忘れる事もないだろう。
友よ。

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