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妖怪年表

妖怪年表一覧

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1555年頃
ポルトガル人から洋傘が伝わり、織田信長が洋傘を集めだす。
1560年
桶狭間の戦い。
前田利家は戦いに無断で参戦し功績をあげるが、帰参は許されなかった。
しかし、これは織田信長が他の武将への体面も考えた上での対応であり、実際には功績を認められ、褒美として南蛮渡来の洋傘を貰う。
利家は洋傘をえらく気に入り、その後の戦でも功績をあげる度に洋傘を要望して収集していった。
1572年
こっこー
こっこー小森幸庵(こもりこうあん)が加賀国(現在の金沢県)で生まれる。
その後、仏門に入り、浄土真宗・本龍寺(ほんりゅうじ)の坊主となる。
1582年
本能寺の変で織田信長が自害。
1583年
賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い。
前田利家は、戦いに勝利した豊臣秀吉から加増され、尾山城(金沢城)を居城とする。
1585年
こっこー利家が洋傘を差して城下町に現れた時に、たまたま金沢城下に居合わせた幸庵は、その傘の美しさに見惚れてしまい、行列に道を開けずに立ち尽くしてしまった。当然取り押さえられたが、理由を聞かれ「殿の傘の美しさに見惚れてしまっていました」と答えると、利家はその審美眼を気に入り、幸庵は小姓として利家に仕えることとなった。
名前の頭文字を取って、利家からは「こっこ」と呼ばれるようになった。
1588年
こっこー幸庵はその審美眼を買われ、前田利家のコレクションの管理係を任されていた。
そんなある日、コレクションの整理をしていた際に、誤って傘の骨を折ってしまう。
運の悪いことに、その傘は織田信長から褒美として受け取った洋傘であった。

その洋傘の価値を誰よりもわかっていた幸庵は、利家に合わせる顔がない、と自ら命を絶ってしまった。

1603年
おけけ
おけけ1603年3月24日。江戸幕府樹立。
その後265年間続く、華々しい江戸時代の幕開け。しかし、その華々しさとは無縁の子がこの日に誕生した。
バテレン追放令によって追い立てられた元イエズス会の宣教師、アレハンドロ・フロイスと、アレハンドロを匿ったお市のとの間に産まれた、キッキ・フロイスである。
フロイス一家は青梅宿(現在の東京都青梅市街)から少し離れた山間の部落、上成木部落でひっそりとつつましいながらも、幸せな暮らしをしていた。

幼少期から、見た目の違いから特別視される事がおおく、いくら「キッキ」だと自己紹介をしても、けけ?と笑われ、次第に「おけけ」と呼ばれからかわれる事となり、人を避けて過ごす事が多くなった。

1620年
おけけいつものように一人川で魚をとっていると、ふと人の気配がした。
見てみると、とても美しい少女が微笑みながらこっちを見ていた。なんだか居心地の悪かったキッキは、見なかったフリをするが、とても息苦しく、自分の鼓動がいつもと違うことに気づき、居心地の悪さに戸惑った。
魚とりに集中しようとするが、どうしても少女が気になってしまい、モリを突く手は定まらず、空振りばかりを繰り返してしまう。
結局、その日は一匹も魚をとれずに引き上げる事にしたが、夜、眠ろうとしても少女の顔が頭をよぎり、一睡も出来なかった。

翌朝、キッキは眠れぬまま川へ漁に出る。
昨日の居心地の悪さの原因を突き止めたかった。人と会うのはあまり好きではないキッキだったが、あの少女と会った時の居心地の悪さは、他とは違う気がしていたからだ。
父と母には話せなかった。父は宣教師であったが、役人に追われてこの部落に来た。周りの理解はあったが、出来るだけ人目に触れないよう暮らしていた。キッキには優しい父だったが、口数が少なく、いつも何かを我慢しているような雰囲気を感じとっていたキッキは、出来るだけ父に迷惑をかけないようにしていた。

その日、結局少女は現れなかった。

1621年
おけけ祭りの日。
キッキは少女を見つける。遠くから見た少女は眩しく、見た瞬間、鼓動が高まるのを感じた。
「話してみてえ」キッキは思った。だが、思いとどまる。家でひっそりと暮らす父と母の顔が頭に浮かんだからだ。

その年、キッキは仏門に入る事を決心する。
髪を剃り束ねた。束ねた髪は、母がくれた布に包み、いつもの川へ流し、その後は寺の住職として生涯を全うする。
両親を自らの手で供養した。村民からも愛され信頼された住職だった。

1657年
学芸振興の意識の強い徳川光圀(水戸光圀)が「大日本史」の編纂に着手する。この頃から水戸藩では下級武士や領民の身分であっても学問による立身を奨励する文化が芽吹く。
しかし、同時に編纂に莫大な費用が発生し、藩の財政の悪化を招き、領民は貧しい生活を余儀なくされた。
1658年
どんぶら〜
どんぶら〜糸賀織ノ助(いとがおりのすけ)が常陸国(現在の茨城県)の商人(反物屋)の息子として生まれる。
1661年
徳川頼房(水戸頼房) 死去 光圀が二代目藩主となる。このとき光圀は、頼房の家臣ら宅をまわり殉死を辞めさせた。光圀は最高の忠義である殉死を初めて禁止した君主となる。
1665年頃
どんぶら〜南蛮中国問わず諸外国の物に強い関心を持っていた光圀は、海外からの亡命者などを家臣や使用人として招き入れる。この頃から光圀は海外の食文化にも傾倒し、ワインの愛飲や肉を好んで食した。なかでも「後楽うどん」(現在のラーメン)を造ることを特技としており、客人や家臣に振舞っている。城下町では「お殿様は、珍しいものしか召し上がらん」という噂が城下町に広がる。貧しくとも勉学に励めと両親に教育を受けた織ノ助は、「一度でいいから、お殿様の御食事を所望したいものだ」と想いを募らせるが、次第に「なんでみんな貧しい生活をしているのに、お殿様だけ特別なんだ?」と疑問を持つようになる。
1670年頃
水戸藩2代藩主徳川光圀(水戸黄門)が南蛮より渡来のメリアス足袋(所謂靴下)を日本で初めて着用する。
1672年頃
どんぶら〜メリアス足袋の噂を聞いた織ノ助は、これを商品として売り出すことを画策し、「お殿様の南蛮足袋」として売り出す。まずは、大工町で大工達に向けて売り出すが、これが大ヒット。水戸城下町で一大ムーブメントを起こす。
その後も改良を加え、武士向けにの商品を開発して売り始めるが、このことが水戸城の家臣の耳に入り、逆鱗に触れた。家臣は「殿の名を使って町人を欺くとは許しておけぬ。子供であっても容赦はせぬ!」と藩士を送り、店先で無惨にも惨殺。最後の言葉は「殿様みたいになって世の中を変えたかった」。処刑後は見せしめに、両手両足を切られ、那珂川に流されるという、なんとも残酷な仕打ちであった。
1939年
おけけ場所はノモンハン。ハルハ川に流れ着いたキッキの髪。
日本軍の青年将校が、流れ着いてくるキッキの髪を川から拾った。
その年、青年は戦死する。
青年の遺品は、ロシア軍兵士に略奪され、後にアメリカ軍の手に渡る。
1949年
おけけキッキの髪を手に入れたピーターソン軍曹は第73爆撃航空団第498爆撃群874中隊に所属していた。
B-29の乗組員となり北マリアナ諸島のテニアン島の西飛行場から日本を攻撃する事を命令される。
1945年4月2日午前3時。高射砲部隊の攻撃を受け、炎上。西多摩郡吉野村(現在の東京都青梅市)の山林に墜落した。
そして現在に至る

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